ブックタイトル国際印刷大学校研究報告 第13巻

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国際印刷大学校研究報告 第13巻

11印刷業経営体の形成過程と課題■で行われていた。その手作業は1950年に化学溶融接着剤へ代替,機械化されている。ラベルと図案の職人は1921年に2千人いたが機械化されると彫金や装飾,革表紙業へ転職した。従業者は量産のため手作業が機械化される都度,解雇されている。印刷業はその時代における異業種の最先端技術を導入し,機械化を図り,従業者を解雇している。導入された例として,化学技術分野からオフセット製版,着色インク,速乾性インク,銅板腐食,銀塩写真・感光樹脂製版,電気技術分野から位置制御,落丁・色監視センサー,帯電微粒子塗布,機械技術分野から金属活字溶融,プレス,輪転機,縫製機がある。印刷需要量の増大時期および国では,機械化能力,つまり設備購入能力が市場競争力優位の源泉であった。2.印刷業の経営体制の形成過程日本には製紙法が中国から610年(飛鳥時代),洋式活版印刷技術がイエズス教会の宣教師によって1590年(天正18年)に持ち込まれている。印刷機は輸入できたが,活字は日本文字の図形が外国文字の図形と異なるため日本で製作しなければならなかった。本木昌造は長崎で徳川幕府の通司役の職にあり,1848年(嘉永元年)にオランダから金属活字と活字印刷機を購入している。1861年(文久元年)にオランダ直営の印刷所が長崎・出島に開設されている。本木昌造は同所で校正を担当していたと考えられている。日本で初めて新聞が発行された年は木版新聞が1856年(安政3年),鉛活字新聞が1870年(明治3年)であり,世界最初の新聞がドイツで発行された1609年から250年経過している。木版新聞は徳川幕府がオランダから輸入していた新聞を翻訳し発行されている。鉛活字新聞は本木昌造らが創設した横浜活版社から発行されている。1886年に教育が義務化(小学令)され,庶民が文字を読み書きできる下地が作られた。日本の形染め技法はスクリーン印刷の起源になった。1940~60年代の高度経済成長期は,謄写版印刷業およびタイプライターを使う複写業が官公庁や企業本社,大商店が集中している大都市で起業している。その企業数の99%は経営規模が零細小規模である。工業製品が量産されると広告や包装材の印刷需要量が増えた。商品・催事チラシ,会議資料,ポスターなどの文面,デザインおよび配色は,印刷前に発注者の校正と最終確認を必要とする。発注者と印刷工場の距離的隣接は,短期間の受注納品に有利である。印刷方式は1970~ 80年代に謄写版,植字方式からオフセット方式へ進化した。1990年代は製版製作作業がコンピュータ(Desk Top Printing)で行なわれ,活字作業の技能者が一掃されている。設備投資資金が乏しい印刷業は,業務の一部を同業者へ委託し資金不足を補っている。距離的隣接の有利性および業務委託は,紙媒体の存在を前提に印刷設備を中核とする賃加工料で経営される内需受注経営体制を定着させた。3.印刷業とサービス業の経営体制の相違点印刷業は,紙媒体の存在と印刷設備を中核とする情報複製業であり,機械導入と解雇で経営危機を乗り越えてきている。従業者は図1に示したように機械化される都度削減されている。削減は産業分類表の業種区分を基準にして比較されている。その区分は産業構造の変動を比較するための行政区分であり,流動しており,最近では2002年に改定されている。情報媒体は切り替わりの過渡期にある。電子媒体は音声・動画の送受信,ネットワークおよびデータ検索の各機能を持っている。電子デジタル技術は商品販売管理などリアルタイムで管理が求められる産業を横断して利用されている。印刷技術は電子デジタル技術との併用により,用途範囲を電子素材・部品の製造などへ拡大,機能が分化している。逓減現象は紙媒体という狭い業種区分と経営体制に拘らず,