ブックタイトル国際印刷大学校研究報告 第13巻

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国際印刷大学校研究報告 第13巻

16■国際印刷大学校研究報告第13巻(2013)それは、1899年清朝政府の高官であった王お ういえい懿栄とその友人劉りゅうかく?の二人が、マラリアに効く薬として北京の薬屋で買った龍骨の上に未知の古文字が刻まれているのを発見した。これが甲骨文字として知られるようになった最初である。その後羅振玉らによって、これが殷王朝のものであり、これらが「史記」で書かれた殷の都「殷墟」の所在地である安陽市小屯村付近で出土することが明らかになり、1925年当時の中国研究院の発掘により約17,000片の甲骨片が集められた。この解読により「史記」の内容の正確性が実証されたものである。ただし、蒼頡の作ったとされる文字がどのようなものであったかははっきりとしていない。前1250?1192年、武丁の時代に青銅器鋳造の技術が発達した。4.周本紀第四、周(zhou)の時代周は西周と東周に区分されている。西周は前1100?770年、東周は前770?255年である。周は陝西省の地に興り武王が殷の紂王を破って王朝を建てたが、前771年に滅び、翌年平王によって洛邑の地に東周を建国した。今の洛陽である。殷王朝末期に始まった青銅器は主として儀式用に使用されたものが多く、その内面にはその儀式のための由来が鋳込まれている。この文字を金文と呼び、これは甲骨文字と共に現在の漢字の原型である。この東周の時代に孔子(前551?479年)や屈原(前339?278年)が生きていた。この時代は一般に春秋戦国時代といわれ、春秋時代に存在した晋国が、韓、魏、趙の三国に分裂したが、前221年に秦王であった?政が天下を統一した。5.秦本紀第五 秦(Qin)(前221?207年)?政は中国歴史上はじめて全国を統一し、自ら皇帝と称し、始皇帝と呼ばれる。始皇帝は前210年死去するのでその在位期間は11年と短期間であったが多くの業績を残した。その業績は国家を法で整備して法治国にし、行政区分を確立、度量衡を統一、貨幣の統一、文字(書体の統一)、思想の統一を行った。この中で特に後期まで大きい影響を与えたのは文字(書体)の統一であり、これは今日まで大変に役立った成果であった。始皇帝と言えばすぐ焚書坑儒事件が知られる。ここで焚書について書いておきたい。一般に本を焚やすと理解されるが、この時代まだ紙は作られていない。当時の書物は、木簡、竹簡、布(帛)に書かれたものをひもで結んだ巻子だったのである。当時の記録はすべてこの方法が取られていたのである。この時に焚やされたものは、すべて思想に関するものであったという。「史記」を書いた司馬遷が死んだのは前90年のこと、この紀伝体の書き方が中国史書の基本となった名著であったからこそ、今日まで読み続けられている。(三)紙の出現紙は後漢の宦官蔡倫(?-121)の発明である。後漢(東漢)はAD25-220年で日本では弥生時代である。この時代書物は木簡、竹簡で作られた策書と布きれに書かれた帛書であった。この帛書は後に「絮紙」が絹で作られたが、生産量も少なく書写材料とはならなかったが、この製法が麻の紙の誕生となるが、その麻紙も木簡、竹簡には代わらなかった。これ等は持ち運びにおいて重量があり、布きれは量も少なく、利用に不便であったので、紙が発明されると、大変便利になり、書物の製作に大いに役立つものとなった。蔡倫はその材料として樹皮や麻くず、ぼろぎれや古い魚網などの廃物を用いて、その中から植