ブックタイトル国際印刷大学校研究報告 第16巻
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国際印刷大学校研究報告 第16巻
西夏初代皇帝李元昊の主な政策は何であったか?■ので、一般に西夏と呼ばれた。以下、西夏と書く。)李元昊の国家運営のビジョン李元昊が父、徳明の地位についた時にどんなビジョンを持って取り組んだか?彼は、それまで宋の国家をよく見ていた。李元昊は建国前から宋とは深い関係を持っていたので父の時代から漢語が使われていた。彼自身も漢語と漢字に慣れ親しんでいた。また、彼は宋の文化に深い憧れを持ち、この分野の研究、勉強を続けていた。皇帝就任にあたって彼の頭中には宋の存在との比較が根底にあったようである。彼に関する多くの資料から、彼は次のスローガンを持ったに違いない。「宋に追いつけ、追い越せ!」ということを。即ち宋の上に立ちたいという強い願望である。彼の宋に関する知識は豊富であった。そして多くの事物を尊敬していたからこそ競争する相手と考えた。だから父から引き継いだ時に、国の管理システムに宋のシステムを取り入れて、その運用も漢(宋)人を多数採用して、管理組織の要所に配置したのであった。万全の策を用意して対応したのである。彼の母語はタングート(党項)語であったが、漢語も広く用いられており、経済面においても宋銭が流通していたのであった。宋に対して「追いつき追い越せ」とは軍事力を意味してない。彼は宋の文化に対して、同じレベル、いやそれ以上にしたい、そして宋に対して上に立つという夢と希望を持っていたのだ。そのためにはどうするか?この目的のために彼は片腕として野利仁栄を指名した。(一説によると野利仁栄は宋人であったとの見方もある。強力なバイリンガルの人であったという。その為の前準備作業として、彼は野利仁栄に次の5項目の着手を指示した。(1)西夏の国字を早急に作ること。この文字は漢字に似て、必ず表意文字であること。表音文字は駄目であること(2)この文字を国定文字として、全国に公布して、国民に教育徹底を計ること。公文書は、すべての新国字を用いること(3)この国字を広めるために、教材を作成し配布すること。早急に用紙の確保と印刷技術の確立を計ること。(4)宋の持つ書物をすべて新国字に翻訳し刊行すること。(5)国家経済安定のため流通している宋銭を止めて新しい貨幣に替えること。このような具体的な指示を出したのである。言うは易く、実行は大変困難なことである。李元昊の在位期間は1032年から1048年までの16年間であるが、皇帝につき国名を大夏(西夏)とした1038年からでは10年間で、この具体的指示は実行された。この5項目について説明する。彼は、皇帝として大夏を建国するまでの6年間に上記5項の準備を命じたのである。この6年間の準備期間の努力が大夏建国という大変大きい成果を生んだのである。5項目の(1)について(1)について。野利仁栄は命ぜられてから、考え抜いて文字私案を3?4年かけて作成し、李元昊に提出した。ここでどういう検討がされたかは何も書かれていないが、李元昊はこれを了として国字に決定したのである。これが、1036年で、これを国字として公布した。李元昊はこの文字完成を祝し年号を大慶と改元した。この経過については、国際印刷大学校研究報告第15号2015年3月刊行、21頁?23頁に筆者による「西夏文字誕生秘話」の報告を参照されたい。(2)国字の教育機関とし1037年大慶二年に番漢二学院を設立した。番は大夏(西夏)の漢は宋の言語である。国字完成後は国内の公文書はすべて新しい文字が使用されることになったが、まだ17