ブックタイトル国際印刷大学校研究報告 第16巻
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国際印刷大学校研究報告 第16巻
■国際印刷大学校研究報告第16巻(2016)漢字も使用されていた。この新文字を使って、この文字の普及のために大量の印刷物が作られた。この印刷方法はまず、木版印刷が用いられたが、この技術もすべて宋からの技術導入によるものだった。新文字誕生までは李元昊自らこの成行きを見ていたが、決定するとその采配はすべて野利仁栄が受け持ったのだが、1人では出来るはずもないので、多くの漢人のスタッフがバックアップしたのである。また、宋の時代は出版文化が最も開花した時期であると共に、いろいろな新しい印刷技術が誕生したが、宋で新しい技法が生まれるたびに、その技法が西夏に取り入れられた。すなわち宋時代の印刷技法はそのまま西夏の技法であった。したがって、この出版文化は文字こそ異なるが、宋と一心同体だった。李元?は宋の出版物を新しい文字を使って西夏文字での出版を命じたのである。最初は李元昊も熱心な佛教徒だったから佛教書から、次に農書、医書、天文書、薬書、法律書等あらゆる分野にわたって翻訳出版を継続させたのである。西夏にとって必要な技術関連の本と佛教書が一番多い。どのような仕組みでこれ等が進められたかの詳細な記録文書は現在でも分かっていないが、しかし、現物が残されているので事実は証明できるのである。これを証明する書物が出版されている。国際印刷大学校研究報告第8巻22頁「2007年11月刊行(中国蔵西夏文研)20巻のこと」で紹介されている。以上でわかるように李元昊の時代は宋との間に多少のトラブルはあったが、最優先で宋の文化を直接多量に受け入れることを実行したのである。李元昊の英明な頭脳と判断力、それと野利仁栄をはじめ優秀なスタッフによって見事に成功したと言えるのです。しかし、李元?は1048年突然死去したのである。彼のすぐれたビジョンの開花を見ないでの死去である。46歳の若さだった。その後2代皇帝から10代皇帝まで初代李元昊の夢は引き継がれ、宋と並ぶ出版文化の華が咲いた。その証はたくさんの仏教書が今日まで残されて貴重な文化遺産として残された。しかし、1227年モンゴル軍によって滅亡したが、この西夏文字はその後は150年使用され続けたが、滅亡と共にタングード族もまた地上から消えていった。範とした宋も南宋が1279年に滅亡、モンゴル族の支配下に入り、元の時代になったのである。最後に5項目(5)について述べる。李元昊は宋に追いつき追い越すためには、国の経済をしっかりした基盤の上に作らねばならぬ。建国当時は、その手段として宋銭が使用されていたが、この宋銭を自国で発行したいと考えて、自国内で流通する貨幣の発行を考えたのである。当時西暦960年から990年頃までは宋銭である「宋元通宝」「太平通宝」「淳化元宝」などが流通していた。これは貨幣に刻印された文字は漢字であった。西夏において最初に鋳造発行されたのは、李元昊が皇帝の座についた1038年で「天授通宝」と呼ばれ、材質は銅であった。刻印文字は漢字である。その後、第2代皇帝福?承道年間(1053-1056)に「福?宝銭」が、第三代皇帝の大安年間(1075-1085)に「大安通宝」が発行されたが、これは西夏文字が刻印されている。第四代皇帝の貞観元宝(1101-1113)には西夏文字の「貞観元宝」、元徳年間(1119-1127)には「元徳通宝」が漢文字楷書体で、同じ「元徳通宝」が隷書体で、「元徳重宝」が漢文字で刻印され発行された。大徳年間(1135-1139)年には漢文で「大徳通宝」が発行されている。第五代の時代乾祐年間(1170-1193)に漢文字楷書で「乾祐元宝」が銅、鉄で鋳造され、西夏文で「乾祐元宝」が発行された。このようにみると歴代皇帝の時代に一種または、二種類が発行されているのがわかる。第六代では「天慶元宝」が漢文と西夏文で、第七代では「皇建元宝」が漢文で、第八代は「光定元宝」を漢文楷書体と篆書体で発行された。第九代、第十代では発行されていないので合計で24種の貨幣が発行されている。私はいままで27年間で35回中国を旅している。仕事での出張、研究旅行がほとんどである。この間、西夏の貨幣を探し続けたが、上海博物館の貨幣館と北京の博物館で見ただけであった。旅18