ブックタイトル富士181号 [特集]品質管理365日 今期の反省とまとめ

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富士181号 [特集]品質管理365日 今期の反省とまとめ

高松高商校舎学校報国隊が組織され勤労動員が行われた江町に「脱走」帰郷した。夏休みが明け、心配する母と一緒に担任の岡教授に詫びを入れて事なきを得たのだが、その後の小池教授の授業(倫理学)では、何かにつけて「石川の如き弱虫は」と厭味を言われた。戦局が日増しに悪化するなか、昭和19年の6月、2年生全員が学徒勤労動員で淡路島の飛行場建設に狩り出された。掘り出した土をトロッコ一杯に積み、手押しで運搬往復の繰り返し。朝8時から夕方6時まで汗まみれになって働いた。一ヵ月半ほどで動員終了となり学業に戻った。それもつかの間、9月中旬には博多郊外にあった小倉陸軍造兵廠(春日原工場)に行くことになった。昼・夜交代勤務で、僕は戦闘機に搭載する機関砲のヤスリ仕上げを担当した。工場には地元の女学校の生徒らも動員されており、休み時間の他愛もない語らいに心が和んだ。その中の一人に三宅昭惠さんがいた。翌年2月、僕が学徒出陣で高知の歩兵連隊に配属されることになったとき、彼女から餞別だと菓子をもらった。入隊してすぐ満州の牡丹江省東安で新兵教育を受けた。兵舎の外は氷点下40度。間断なく舞い降りてくる粉雪を踏めばキュルキュルと片栗粉のような音がした。5月、高知の連隊へ復帰。僕は来たるべき本土決戦に備え、連日、高知の山中でトーチカ用の横穴を掘っていた。8月、終戦。あっけないといえば、あっけなかった。同級生の森本圭史君は海軍予備生徒に志願して僕より5ヵ月早く入営した。「君、死んだらあかんぜ」が僕から彼への別れの言葉。特攻兵器・人間魚雷「回天」の訓練中に終戦を迎えた彼とは戦後に再会し、お互いの無事を喜び合った。トーチカの横穴掘れと蝉しぐれ◆◆昭和20年7月の高松空襲によって高松高商の校舎はほとんどが焼失していた。9月、僕たち第20回生は卒業式もないまま、半年繰り上げ、2年半の在学で卒業となった。帰郷して、時間だけは十分あるという身の上になった僕は、有志数人とともに、戦没者の遺家族に対して野菜や魚を安く販売する奉仕活動に参加した。川之江小学校の一学年上で、後に川之江市長となる石津栄一さんもメンバーの一人だった。翌年春、本命の東京商科大の受験に失敗した僕は、慶應義塾大学に入学を許された。「僕の代わりに行け」と慶應への進学を薦めて帽子をくれたのは、学業を続けられなくなった親戚の石川信年さんだった。信年さんは石川辛夷という号を持つ俳人で、僕