ブックタイトル富士181号 [特集]品質管理365日 今期の反省とまとめ

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富士181号 [特集]品質管理365日 今期の反省とまとめ

「われら、家郷を脱走して王事のために奔走してきたが、野盗の汚名を着て死ぬ」(司馬遼太郎『浪華城焼討』)1865年(慶応元年)2月、大阪城焼討の尊王派の同志を募るために作州路を遊説中の4人の志士が、百どうど々う村むら(現・久米郡美み咲さき町ちょう)の村民の襲撃を受け、惨殺された。同志と信じて軍資金の協力を申し出た百々村の造り酒屋に辱めを受けたのが、騒動の発端だった。山伏谷は、この事件が起きた久米郡美咲町にある「坊主谷」と推定される。坊主谷から約10キロ離れた久米郡久く米め南なん町ちょうには、法然の生誕地に建立された誕生寺がある。御ぎょ忌き(法然の忌日)を迎える頃、当地は必ず寒波に見舞われるという。この寒波を地元では「誕たんじょうじばばあ生寺婆(御忌婆さん)」と呼ぶ。若くして夫を失い、一子・勢せい至し丸まる(法然)とも哀別して病没した母・泰はた氏うじ君きみが、御忌が来ると、那な岐ぎ山さん霊れいの神体を借り大蛇と化して誕生寺の御本尊の法然に逢いに来るのが、この寒波なのだと伝えられる。本図は『六十余州名所図会』の代表作の一つだが、当社の所蔵する複刻版に欠落があるため、初摺からの複版である。常ならぬ暴風雨が、志半ばで斃たおれた志士の悲劇や、「誕生寺婆」の伝承を想起させる。美作(みまさか)山やま伏ぶし谷だに