ブックタイトル国際印刷大学校研究報告 第15巻

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国際印刷大学校研究報告 第15巻

西夏文字誕生秘話■西夏文字誕生秘話松根格An unknown episode-About the origin of Xi-Xia scriptsItaru MATSUNE現在の中国寧夏回族自治区銀川は、千年も前大夏(西夏)の首府があったところである。その頃は、興慶府と呼ばれた。西夏は党項羌(タングート・キョウ)族が建国した王国であった。党項羌の活動地域は広くチベットから青海省のあたりまで活動の足跡があるが、西夏が成立する頃は、今の甘粛省から内蒙古自治区、寧夏回族自治区に至る広い地域であった。党項羌のルーツを追えば、チベット族まで逆るが、その流れを持つミ・ニャク族であると言われている。すなわち彼等の話す言葉はミ・ニャク語であり、この言葉が西夏語の源流なのである。西夏が建国されたのは1038年李元昊が即位し皇帝と称し、国名を大夏と決めた時に始まる。実際はその前に元昊の父徳明が死去し、その後を引継いだ時点で、これは1032年でここから始まる。いろいろな資料から元昊という人物は、ミ・ニャク語は母語であるし、チベット語、ウィグル語、漢語を読み書き話すことができる多言語の能力を有する大変すぐれた頭脳の持ち主であった。元昊は引継ぐと同時に国の組織の大改造を行い、範として宋の組織、やり方を導入した。またライバルである宋ではあるが、宋の文化には強く影響を受け、宋の持つ国字(漢字)の魅力から、自分がこれから育てる大夏にも独自の文字が必要であり、どうしても作らねばならないと考えてすぐにそれに取り組んだ。元昊は側近の野利仁栄に国字の製作を命じた。野利仁栄は西夏人(党項人)で、中国の書物では大臣と書かれているので、重要な官職であろうと思うが、元昊と同じく多言語の話者であり、言語の知識の豊富な人であったのだろう。現在の日本の官職で見ると文化庁長官に匹敵する役目の人だろうと思う。この野利仁栄が試案を作成するのにほぼ3年の期間が必要だった。この試案が作成され、元昊に提出されて、皇帝の元で検討されて選定し、それが交布されたのは1036年のことであった。公布された文字数は約6千百字であった。写真を見て戴くとわかるが画数の多い複雑な文字で、製作(文字デザイン)にも困難と苦労があったと思うし、とうてい一人で出来るものではないと思うので、語学の専門家をスタッフとして完成したものと考える。製作者野利仁栄はこの製作で大きい名誉を得たが、それ以外の業績については、この新しい言語教育に取り組んだこと以外は何も知られていない。もう一つ製作者について書かれている文献がある。それは元昊の臣下であった遇乞(グコツ)が作成したとする記録がある。これは中国のエッセイ集である沈括の書いた「夢渓筆談」という書物の中に次のような文章が残されている。「その部下の遇乞は、これより先に蕃字を創造せんと、独りである楼上にこもり、年月を重ねてようやく完成し、この時になってそれを献上した。元昊はここで改元し、冠服と礼楽を製定し、国中に、すべて蕃字と自分たちの礼式を用いるよう命令し、みずから大夏と号した。」と書かれている。蕃字とは西夏文字のことである。ここで一つ大切な事を書いておく。李元昊が建国した大夏は、宋から見れば宋の首郡(北京)から見て西にあるので、宋は大夏を通称西夏と呼んだ。これが一般化されたので、以降はすべて西夏という言葉に統一して使用する。西夏文字の創字について、製作者はこの二人の名前が書かれているので、恐らく想像だけれど21