ブックタイトル国際印刷大学校研究報告 第19巻

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国際印刷大学校研究報告 第19巻

17『字彫り版木師木村嘉平とその刻本』にみる歴代木村嘉平の作品■■はじめに本稿は、天明期から明治期にかけて活動した五代にわたる版木師・木村嘉平に関する調査報告である。歴代木村嘉平のうち三代目木村嘉平は、幕末期に電胎法を用いた金属活字を開発したことで知られる。日本の金属活字の歴史は16世紀末のキリシタン版および駿河版に始まるとされるが、金属活字の製造が継続されることはなかった。17~19世紀の徳川政権下において印刷文化は発展を見たが、その版式は木整版と木活字版が主流であり、金属活字は約250年にわたり印刷・出版文化の埒外に置かれた。しかし西欧文明との接触が頻繁となった幕末期、技術革新への要請が急速に高まる中、金属活字開発が国内各地で同時進行した。その中で本木昌造、大鳥圭介、三代目木村嘉平の金属活字開発がよく知られる。1859(安政6)年に本木昌造による金属活字を用いた『和英商賈対話集』が発刊され、翌年、大鳥圭介の金属活字を用いた『築城典刑』が発刊された1。三代目木村嘉平の金属活字は、さらに4年後の1864(元治元)年に完成されたものである。上記の本木昌造および大鳥圭介の金属活字は旧来のパンチマトリクス法などで作られた。これに対し三代目木村嘉平の活字は、近代的製造法である電胎法を用いて製造された最初期の国産活字として評価される2。三代目木村嘉平は江戸の版木師としての名跡を継いだ職人であるが、薩摩藩・島津斉彬の依頼を受けて金属活字の開発を行った。総活字数は369個で、諸道具とあわせて5つの木箱に収納される3。1998年(平成10)年に「木村嘉平関係資料」として 国指定重要文化財に指定され、鹿児島市吉野町の尚古集成館に所蔵された。三代目木村嘉平に関する記述は、ほとんどの活字史文献中にみられ、その内容は一致しているが、それらの中には、次の(A)(B)のような記述もみられる。・(A)『本木昌造平野富二詳伝4』p.43より「明治元年に長崎裁判所(現今の縣庁)にも活版部があつた。然し其所では鉛の彫刻活字とか、木活字の曲尺二分角のものを使用して居た。さうして木村嘉平なる者が専ら彫刻に當つて居た。即ち明治元年(慶応四年三月発布)「太政官訓諭」の柱に「長崎裁判所、木村嘉平刻」とあり、文字の書体は楷書。(西谷常太郎氏所蔵)」・(B) 『長崎印刷百年史5』p.45より「崎陽雑報という表題の木活字は、前述の木村嘉平が彫刻したものと言われている。(活版印刷伝来考)」(A)は木村嘉平なる人物が長崎裁判所で彫刻を行っており、慶応4年3月に発布された「太政官訓諭」の柱にその名がある、という文章と読める。(B)は、長崎で発刊された幕末の新聞『崎陽雑報』大串誠寿『字彫り版木師木村嘉平とその刻本』にみる歴代木村嘉平の作品Kimura Kahei family's works recorded on 『Kimura family the Woodblock Engraver, and Books made by them』Seiju OGUSHI